節司(せっし)という職

僕は、
「建築家」をという肩書きをやめ、「節司(せっし)」とすることにしました。



建築という言葉は、実はまだ新しい言葉・・・
お叱りを恐れずにあえて言いますが、西洋文化に迎合し、architectを「建築家」としたのは我が国の歴史・価値観・自尊心を捨てたという意味においてある種の罪だったのかもしれないと考えている。

本来constructionの意である「建築」という言葉が、先に立ち過ぎた結果、本来「庭に住む」だったはずのものが、いつのまにか「家に住む」となってしまい、身のまわりから庭や植物が消えていったのではないかと思う。

僕らは言葉から逃れられないから、言葉は大切なのである。

これからの時代、もはや「建築家」という言葉を変えたらどうだろうか、と思う。
僕は日本では、「建築家」という言葉は過去のものとして葬り、これからは「節司(せっし)」と呼ぶのが相応しいと考える。

「節司(せっし)」とは「季節を司る職」のことを指す言葉として、体の中にすーっと舞い降りてきた言葉であり、その後、体の底からイメージと力が湧き上がる泉となった言葉です。

施主のみならず、仲間のアーティストや作家さんや職人や庭師などと「節司(せっし)」についての話をしてみると、大変盛り上がる。

言葉一つで大変盛り上がるのである。

辞書にも載ってない言葉であるが、日本では家屋に携わる人々は本来「節司(せっし)」だったのではないかと想う・・・。





ここで同じ「司」が付く職業を眺めてみましょう。

・宮司(ぐうじ)は祭祀を司る職。お宮に司り、お宮さんのために、姿を消す職業。
・行司(ぎょうじ)は相撲の勝敗を司る職で、俺が俺がとは言わない職業。
・司会(しかい)は会の進行を司る職。でしゃばり過ぎると煙たがられる職業。

実は「司」が付く職業とは、「なにかのために姿を消す」職業でありました。
建築家がこの意識に欠けてきたため、街には俺が俺がとでしゃばる建物が溢れ、庭も植物もどこかへ追いやられてしまい、季節を感じない街となってしまいました。。。




我が国は、お月様の恵みで「二十四節気」というように四季が豊かであります。
昨年から日本全国で季節がはっきりとしはじめております。

屋敷には「庭屋一如」と申しまして、「庭と家屋としつらえ」が一体となる、本来そういう理想があります。

家屋は、その理想の一端を担います。
しかし建築家が「屋敷」という概念を忘れた結果、街並みから「庭」が消え、「しつらえ」は息絶え絶えで、歩いても季節を感じない街を作ってきてしまいました。

理想の街並みの形成には「屋敷」を設計する職、つまり「造家と作庭としつらえ」を総合する職が必要だったのです。その職のことを勝手に「節司(せっし)」と名付けることとしました。


「季節を司る者には、季節に己を捧げ、己の姿を消す、そのような厳しさ」も求められます。
宮司しかり、行司しかり、
己を捧げ、己を消します、そして厳しさがあります・・・・。

節司も厳しく己を消す事で、屋敷の主人に表現者として生きる「間」を与える事に専念できます。

「造家と作庭としつらえ」を含んだ職としての「節司(せっし)」・・・。
昨年から季節がはっきりとしてきた我が国に、今後「必要な職」と想々・・・


遠くない将来、建築学だけでなく「節司学」という学問を学ぶ学生達が世に出てくる事が、僕にとって我が国の希望の一つであります。


「節司学」には、様々なアーティストや作家さん・庭師・職人・山師・材料屋・道具屋・・・などの先生方が入りこんでくることになります。
楽しそうな学科ですね。ぜひ通ってみたいものです。



日本語の一音一音のもつ響きで解いても
●せ:生命の営み
●つ:星 細胞 起点
●し:凝縮
ですので
「せ・つ・し」とは「生命の営みの中で、星、細胞、その起点を凝縮すること」となるのでしょう。


「司」がつく「職」に付く方々にあらためて感服いたします。
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by fuwahiroshi | 2016-03-25 01:57 | 想々  

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